光は、記憶そのものかもしれない。いや、違う。光は、記憶が、呼吸するための、酸素であり、観念が、形を、成すための、触媒だろう。もし、光が、消えるならば、それに、紐づけられた、全ての、存在もまた、その、輪郭を、失い、透明な、無へと、還るのではないか。

カレンは、静寂という名の、厚く、柔らかな、毛布に、包まれた、この、霊廟の中で、息を潜めていた。

彼の、工房は、都市の、喧騒から、隔絶された、一種の、深海だった。棚という、棚には、無数の、ガラス管が、まるで、古代生物の、骨格標本のように、整然と、並べられている。アルゴン、ネオン、キセノン。かつて、都市の、夜に、色彩を、与えていた、希ガスたちは、今は、冷たい、ガラスの中に、封じ込められ、沈黙している。それらは、もはや、光ることのない、死せる、言語の、断片だった。

カレンの、指先が、その、一つ、『紅龍飯店』と、記された、曲線に沿って、滑る。

彼が、記録するのは、単なる、光の、スペクトルや、物理的な、劣化ではない。彼が、執着するのは、『ルーメン・メモリー』。ネオンが、輝いていた、時間という、不可逆の、川の流れの中で、確かに、そこに、存在したという、証左。その、光を、見上げた、人々の、微かな、感情の、残響、あるいは、その、光の下で、交わされた、言葉の、断片。彼は、それらを、特殊な、音響センサーと、フィールドレコーダーを、用いて、掬い取ろうとしていた。

「君は、何を見てきた?」

カレンは、静かに、問いかける。もちろん、答えはない。だが、彼は、感じるのだ。ガラス管の、表面に、残された、微細な、振動の、痕跡の中に、確かに、宿る、記憶の、在り処を。この、途方もない、作業は、失われゆく、存在を、繋ぎ止めるための、祈りに、似ていた。それが、完全に、消える前に。

窓の外では、絶え間ない、雨が、都市の、輪郭を、溶かしていた。

近未来と、呼ばれる、この時代において、物理的な、ネオンサインは、既に、絶滅危惧種だった。維持には、コストが、かかり、効率が、悪い。かつて、欲望と、夢を、照らし出した、その、暖かくも、物悲しい、光は、今や、その、ほとんどが、役目を、終えている。

代わりに、空虚で、透明な、ホログラム広告が、空を、覆っていた。巨大な、鯨の、ホログラムが、ビルと、ビルの、間を、悠然と、泳ぎ、雨粒を、すり抜けながら、無遠慮に、人々の、生活空間を、侵食する。あれらは、光ではあるが、熱を、持たない。記憶を、宿さない。あれらは、存在しないものを、存在するかのように、見せかける、欺瞞だろう。カレンは、そう、感じていた。ホログラムの、光は、あまりにも、饒舌で、そして、冷たい。

古い、音声端末が、静寂を、破り、無機質な、声で、定時ニュースを、告げた。それは、第七地区、この、都市に、残された、最後の、ネオン街の、再開発計画が、正式に、承認されたという、短い、事実だった。

予期していた、ことではある。都市は、常に、新陳代謝を、繰り返す、生き物だ。古い、細胞は、死に、新しい、細胞が、生まれる。

しかし、その、報せは、カレンにとって、穏やかだった、時間の、流れが、突然、その、速度を、増し、全てを、飲み込む、奔流のように、感じられた。記録すべき、光が、まだ、あそこに、残されているというのに。彼らの、声なき、声を、まだ、十分に、聞いていないというのに。

残された、時間は、多くない。

カレンは、立ち上がり、雨に、濡れる、窓辺に、近づいた。眼下に、広がる、第七地区は、まるで、水底に、沈んだ、遺跡のようだった。いくつかの、ネオンが、雨の中で、滲みながら、かろうじて、その、存在を、主張している。それは、まるで、消えゆく、意識が、最後に、見る、夢の、断片のようにも、見えた。

彼の、視線は、無数の、光の、粒子が、漂う、暗闇を、彷徨い、やがて、一つの、点に、収束する。地区の、最も、奥まった、路地裏。他の、どの、光よりも、強く、そして、孤独な、光。

湿った、空気の中で、なおも、毅然と、その、冷たい、青い、光を、放ち続ける、一つの、ネオンサイン。ジャズ・バー『ザ・ブルー・ダリア』。

あれは、まだ、生きている。他の、ネオンたちが、次々と、沈黙していく中で、あの、青い、光だけは、まるで、世界の、終焉に、抗うかのように、静かに、燃え続けている。

「君の、声を聞かせてくれ」

カレンは、透明な、ガラスに、手を、当てた。彼の、感情は、焦燥では、なかった。それは、もっと、静かで、透徹した、記録者としての、使命感だった。

あの、青い、光が、消える前に、その、存在の、全てを、記録しなければならない。